lundi 31 décembre 2007
パリ大学留学まで
1) はじめに
2) いつからそういう想いが芽生えていたのか?
3) 仕事の意味を考える
4) そして一線を踏み越える
5) パリ大学訪問とある事務官のこと
6) 2006年暮れのランデブー
7) 再びパリへ
8) パリからの連絡
9) 提出書類の準備
10) 哲学の関連で思い出すこと
11) 哲学を「学ぶ」とは
12) マスターのプログラムを見る
13) 取るべきコースの薦め
14) もし・・・がなかったら
15) パリでの心の昂ぶりを思い出しながら
16) フランスからのメール
17) フランス大使館にて
18) 入学許可書届き、ビザ申請へ
19) アパルトマン探し、銀行口座開設など
20) 台風の中、無事パリ到着
21) 旧友訪問
22) 口座開設、そして住居探しへ
23) アパートを見る
24) 大学を覗く
25) アパート契約終了
26) 巴里到着
27) まとめ 「フランス語、そして科学から哲学へ」
● すべてを見る場合には、こちらからお越しください。
は じ め に
2009年5月31日
La Pensée
定年を迎える数年前から、どのように人生を歩むべきかという究極の問いが目の前に現れたと記憶しています。振り返ってみると、そのあたりからそれまで等閑にされていた精神生活が活発になってきたようです。試行錯誤を繰り返す中、最終的にはパリ大学で科学哲学を学びながら、人類の遺産を漁り、自らの思索を深めるという決断をするに至りました。2007年秋からパリに落ち着き、パリ第1大学大学院哲学科修士課程に在籍しながら、当初考えた歩みを進めているところです。2年目の終りを前にして、留学に至るまでの過程を振り返り一つのファイルに致しました。何かの参考になるとすれば、これに優る幸せはありません。
いつからそういう想いが芽生えていたのか?
2007年3月1日


最初にフランスに住んで何かをしてみたいという思いを感じたのはいつ頃だろうか。おそらく、2003年7月のことではないかと思う。フランス語に出会ってから2年目のことである。その時、1週間だけパリに滞在する機会があり、午前中を語学学校でのフランス語学習に、午後を仕事に当てるという計画を立てた。学校ではグループ学習と2-3回の個人授業という構成にした。まだフランス語との付き合いも真剣なものではなかったので授業は大変であったが、いかにもフランスという教室は開放感があり、そこで聞くフランス語は美しく感じた。グループには、ブラジル、オランダ、スイスからの3名、パリ滞在中の日本の方と私の5名。彼らとの語らいは気持ちのよいものであった。個人授業では自分の周りと頭の中が完全にフランス語で溢れ、まるでフランス語の海に溺れているような感覚に襲われていた。そして、その思いはこの個人授業で中年の女性教授と話をしている時に浮かんできた。
外国に行くと、しばしば自分の中に眠っているものが吹き出すことがある。外国にいる間だけ、自分の頭の中に生きている錯覚に陥ることがしばしばである。彼女はその時、なぜフランス語を始めたのですか、さらに続けて、こちらで仕事をしたいのですか、という質問をしてきた。この二問目の質問が私に大きな変化を与えた。それはそれまで考えてもいなかったか、あるいは心のどこかにその芽はあったのだが不可能だろうと決め付けて考える範囲の外に置いていたことであった。しかし、何気ない調子で発せられた彼女の言葉の中に、フランスでの仕事を不可能と考える理由など何もない、ありえないことなど何もないことなのですよ、という空気を感じてしまったのだ。それで咄嗟に、できればこちらで仕事をしたいのですと答えていた。これには自分でも驚いていた。さらに彼女は続けた。午後は仕事と言っていますが、それはこちらで就職先を探しているのですか、などと先走ってくる。この問にはもちろん NONと答えたが、それも面白いかもしれないなどと、その考えを遊んでいた。
学校が終わり、日本に帰る。そして、夢の世界からいつもの日常に戻ってくる。その日常に埋もれているうちに、実現性のないその話は頭の底に沈み、そのままになっていた。
仕事の意味を考える
2007年3月8日


2年ほど前からこれから先をどのように生きていくのが自分に一番しっくり来るのかを考え始めていた。当時は、これから5年、10年と今の仕事を続けることができれば、と漠然と考えていた。2005年夏にパリの研究所で1ヶ月ほどを過ごした。今から思えば、研究を少しだけ遠くから見始めているようには思えるが、研究を続けるという気持ちに変化は出ていなかった。実際、2006年春には、仕事を続ける環境を求め、外国にあった大学に実際に出かけてみた。その大学の15-6名と会って話をうかがい、まわりの環境などもこの目で見ることができた。最終的に形にはならなかったが、現場で自分がどのように反応するのか、これからの仕事がどういう状況のものになるのかということを実感できた。この経験は、今の仕事の継続が要求するものを考える上で大きな意味を持つようになる。
2006年秋にはパリで会議があったので、2週間ほど滞在。帰国後のある早朝、時差ぼけのため目が覚めた。将来意味を持ってくるだろうと感じてその時刻を控えておいた。それは9月21日午前3時35分のことである。その時、それまでおぼろげに日本には欠けていると思っていた、ヨー ロッパ精神の三大要素の一つにも数えられている「科学精神」について少し踏み込んで考えてみてはどうかという声が聞こえたのだ。「科学精神」ということになれば、その発祥となるギリシャ哲学にまで遡って考えざるを得なくなる。そして、それ自体が哲学の歴史を遡ることに繋がる。大きく言えば、人間のこれまでの歩みを辿る壮大な旅になる。一生かかっても終着駅に辿り着かないような壮大な旅に。これこそ今まで仕事の中で埋もれてはいたが、私の底流で深く静かに求めていたことではないのかと、すぐに直感したのだ。それは広く考えることへの憧憬と言ってもよいものだろう。しかしこの時はまだ、それを具体的に実現しようという思いは現れていなかった。
それから秋が深まり、大学で教える可能性についても検討していた。大学で教えるという道は、自分の中では優先順位の高いものではなかったが、実際にその環境に入って考えてみることにした。ある大学の構内を歩いている時、このような大学での仕事の余暇に人類がこれまで考えてきたことを深めることができれば、という思いが浮かんでいた。ただ、実際の仕事の内容を聞いてみると、それをするには時間が足りなすぎるというのが結論であった。
これらの流れとは別に、仕事が終わりに近づくにつれ、それまで完全に仕事の海に浸りきるようにして生活していたその意識が、次第に海の中から浜辺へと出て行っているのがわかった。それは同時に、今まで浸っていた海を外から見ることになり、それ以外の山や森や街などの景色も目に入ってくることにつながった。私の中のこれらの変化は、人生におけるいわゆる仕事の意味を問い直すところに導いたのだ。この広い世界の中において、これまでやってきた仕事というのはどの程度の意味を持っているのだろうか、少なくとも今まではそれに100%の情熱を注いでいたのは間違いないが、人生全体を通してみた時にどのような意味があるのだろうか。そう考えるようになったのは、いわゆる仕事の終わりだけではなく、自らの終わりをも意識できたことによる。それは、これからどのように仕事をしていくのがよいのか、という問ではなく、残りの時間全体をどのように使わなければならないのか、つまり人はどう生きるべきなのかという哲学的な問題として生れて初めて私の頭を悩まし始めていた。
そして一線を踏み越える
2007年3月26日

これからどう生きるのが自分にとって一番自然なのか、その中で仕事の持つ意味とは何なのか、というようなことを考える中で、思索を中心に据えた生活をしてみたいというぼんやりとした願いが次第に膨らんでいることに気付き始めていた。そして、2006年11月に入った頃だろうか、自分の思うようにこの精神を働かせてみようとする時、いわゆる仕事を続けることは障害にしかならないのではないか、とはっきりと意識できたのだ。そして、これからの数年を放浪 (物理的にも精神的にも) に費やすことができればどんなに素晴らしいだろうという思いに至った。これまで仕事が忙しいということですべて先延ばしにしてきた諸々の問題について、自分の持っているすべての時間を自由に使って考えてみたいという強い思いが立ち上がってきたのである。
それからパリの友人MDにメールを出し、私の決断を伝える。その中には、パリをベースに世界を観察しながら歴史、哲学、科学について自らの考えを深めていきたいと綴っていた。彼からは特に驚く様子もなく、それは素晴らしい、ただ生活のこともあるので自分の勤めている研究所でそのような人を採用する可能性がないか探ってみると書かれてあった (実際に報酬の出るポジションは難しいとの連絡が後ほど入ったが)。無理と分かっているような可能性について、真剣に検討してくれる彼の心には感謝しかない。また、どこまでも可能性を追究するというその姿勢には、いつも見習わなければと思わせてくれるものがある。
この時期に、こんなこともあった。私がお手伝いをしているP協会の会長をされているW氏が訪ねてこられた。氏はパリに長く、もう70歳は優に超えていると思われる。話題が科学になった時、氏は向こうの科学者が研究を進めていくと最後は神を考えなければならなくなる人が多いですね、と切り出し、科学とそれ以外の領域との関連に強い興味を抱いているということを話された。私が科学を少し上から眺めてみたい、哲学や宗教との関連について考えてみたいという希望を持っていることを伝えると、氏はそういう道を選択する人がいるということを非常に喜ばれ、青年のように私を励ましてくれた。また、日本にはそのあたりの専門家が少ないとのことであった。
こんなエピソードもあった。私は2年以上前からお昼の時間を意識的に散策に使うようにしている。そして2006年11月のある日、近くの本屋に入った。どういう訳か棚の前に柱があり、棚の本がよく見えないところがあった。しかし、あるいはそれゆえ、その向こうが気になり覗いてみた。するとそこに 「科学哲学」 というクセジュの文庫本が置かれているのが目に入った。ページを捲ってみると、各章が短くて物語性に乏しく、全体がつかみにくい本だな、というのが第一印象であった。それから著者の紹介を見て、私は反応していた。その人がジョルジュ・カンギレム・センターの責任者だったからである。
私が科学を哲学的視点から見てみようと思うようになったきっかけ、もっと正確に言うと「科学哲学」なる領域があるということを知ることになったのは、今から2年前になる。2005年3月、パリから友人のMDが訪ねてきた時の何気ない会話に出てきた「ジョルジュ・カンギレム」という名前にあったのだ。それを彼が "Georges Canguilhem" と綴ってくれた時、実に不思議な感じがした。そういうことは今まで余り経験がない。今振り返ると、それはどこかに導いてくれる扉だったような気がする。その時は全く意識していなかったが。
とにかく何かの縁を感じて、センターを統括しているDL氏に私の希望を伝えるべくメールを出してみることにした。その時、どこかに向けての第一歩を踏み出したとはっきり感じていた。

これからどう生きるのが自分にとって一番自然なのか、その中で仕事の持つ意味とは何なのか、というようなことを考える中で、思索を中心に据えた生活をしてみたいというぼんやりとした願いが次第に膨らんでいることに気付き始めていた。そして、2006年11月に入った頃だろうか、自分の思うようにこの精神を働かせてみようとする時、いわゆる仕事を続けることは障害にしかならないのではないか、とはっきりと意識できたのだ。そして、これからの数年を放浪 (物理的にも精神的にも) に費やすことができればどんなに素晴らしいだろうという思いに至った。これまで仕事が忙しいということですべて先延ばしにしてきた諸々の問題について、自分の持っているすべての時間を自由に使って考えてみたいという強い思いが立ち上がってきたのである。
それからパリの友人MDにメールを出し、私の決断を伝える。その中には、パリをベースに世界を観察しながら歴史、哲学、科学について自らの考えを深めていきたいと綴っていた。彼からは特に驚く様子もなく、それは素晴らしい、ただ生活のこともあるので自分の勤めている研究所でそのような人を採用する可能性がないか探ってみると書かれてあった (実際に報酬の出るポジションは難しいとの連絡が後ほど入ったが)。無理と分かっているような可能性について、真剣に検討してくれる彼の心には感謝しかない。また、どこまでも可能性を追究するというその姿勢には、いつも見習わなければと思わせてくれるものがある。
この時期に、こんなこともあった。私がお手伝いをしているP協会の会長をされているW氏が訪ねてこられた。氏はパリに長く、もう70歳は優に超えていると思われる。話題が科学になった時、氏は向こうの科学者が研究を進めていくと最後は神を考えなければならなくなる人が多いですね、と切り出し、科学とそれ以外の領域との関連に強い興味を抱いているということを話された。私が科学を少し上から眺めてみたい、哲学や宗教との関連について考えてみたいという希望を持っていることを伝えると、氏はそういう道を選択する人がいるということを非常に喜ばれ、青年のように私を励ましてくれた。また、日本にはそのあたりの専門家が少ないとのことであった。
こんなエピソードもあった。私は2年以上前からお昼の時間を意識的に散策に使うようにしている。そして2006年11月のある日、近くの本屋に入った。どういう訳か棚の前に柱があり、棚の本がよく見えないところがあった。しかし、あるいはそれゆえ、その向こうが気になり覗いてみた。するとそこに 「科学哲学」 というクセジュの文庫本が置かれているのが目に入った。ページを捲ってみると、各章が短くて物語性に乏しく、全体がつかみにくい本だな、というのが第一印象であった。それから著者の紹介を見て、私は反応していた。その人がジョルジュ・カンギレム・センターの責任者だったからである。
私が科学を哲学的視点から見てみようと思うようになったきっかけ、もっと正確に言うと「科学哲学」なる領域があるということを知ることになったのは、今から2年前になる。2005年3月、パリから友人のMDが訪ねてきた時の何気ない会話に出てきた「ジョルジュ・カンギレム」という名前にあったのだ。それを彼が "Georges Canguilhem" と綴ってくれた時、実に不思議な感じがした。そういうことは今まで余り経験がない。今振り返ると、それはどこかに導いてくれる扉だったような気がする。その時は全く意識していなかったが。
とにかく何かの縁を感じて、センターを統括しているDL氏に私の希望を伝えるべくメールを出してみることにした。その時、どこかに向けての第一歩を踏み出したとはっきり感じていた。
パリ大学訪問とある事務官のこと
2007年3月28日


2006年12月はじめにDL氏にメールを出したが、返事が来る気配がない。一方、MDからは研究所で前例はないが私のような立場の人を客員の形で採用できる可能性はありそうだという連絡が入っていた。ということもあり、年の暮れに向こうの様子を見るため、厳寒のパリで2週間ほど過ごすことにした。
まずMDに挨拶をするために彼の研究所を訪問。研究所の状況を説明される。それから友人の哲学者に助言をもらうこともできるが・・・と言って彼女のホームページを見せてくれたが、専門が違うようなので、まずDL氏のいる大学に行ってみることにした。ほとんど突撃である。
とにかく構内に入り、事務がありそうな所に入る。学生で溢れている。事務員が出てきたのでDL氏のことを尋ねてみたが、そんな人はここにはいないとつれない反応。別のキャンパスに送られる。メトロで降りてその方面に歩いてみたが、大学らしい建物になかなか出くわさない。何度か往復し諦めて帰ろうとしたが、折角ここまで来たのだからと思い、再び戻って建物の近くに行ってみる。案内図に何と Sapporo と名づけられたビルがあり、これは何かのサインではないかなどと考えながら中に入る。ここでも事務らしきところを探すのに一苦労。ほとんど手当たり次第に聞いて回るが、なかなか見つからない。そして最後に入った部屋で親切な人に会う。
彼は私の希望を叶えようと必死に探してくれた。この間、私はDL氏の統括するセンターなるものが実体のない組織ではないかとさえ思っていたので、この事務官には何度ももう探さなくていいですよと断った。しかし、彼は一切それを聞かなかった。そしてわかったのは、何のことはない最初に訪ねたキャンパスにDL氏の研究室があったのである。さらに彼は私のためにアポイントメントまで取ってくれた。DL氏の秘書が電話に出ているのでお前が直接話をしろ、と言う。こちらの状況を説明すると、あなたのメールや書類のことはDL氏は知っていて興味を持っているので、来週こちらに来てほしいという。その日はパリを離れる前日になる。それならそうと言ってくれればもっと余裕を持って計画できたのに・・・という思いであった。またこの世界には私のような者も受け入れようとするところがあることに驚き、心を強くしていた。振り返れば、この事務官の執拗さがなければ今につながっていなかったかもしれない。彼との出会いには何か不思議なものを感じている。
ということで、どうなるかわからないが、とにかく進むべき道が見えてきた。解放され、満ちたりた気分で近くのカフェに入り、長い一日を振り返る。その時、自分の体の周りが、目には見えない液体で溢れ、この体を圧迫するように感じていた。これまで何度かこういう感覚が襲ってきたことがある。それはいずれも外国での経験になるが、自分が大きな分岐点を前にしていると意識した時である。日本にいると、あたかも決められているように感じる道を何気なく歩んでいるところがあるのだろうか、そのような経験をしたことはない。近くの席では日本からの留学生と思われる女子学生二人が勉強のことを話している。そしてカフェを出た時、目の前には真っ赤に染まった空が広がっていた。今日の写真である。この空を見た時、完全に自分は包まれている感覚に陥り、ほとんど運命的なものを感じていた。ああ、俺はここに来て学ぶことになるのだろう、と。しかし、事はそう簡単ではないことに気付くことになる。
2006年暮のランデブー
2007年3月29日


DL氏とのランデブーは2006年も押し迫った27日。それは私が日本に戻る前日であった。ランデブーの前に、DL氏に何を伝えればよいのか、一応のリストを作っておいた。メトロを降りると、大学の建物がすぐ目の前にあった。当然のことだが、案内をもらっていた研究室のあるビルに入っても人影はほとんどない。この時期に時間を割いてくれたDL氏に感謝していた。部屋に入ると温厚そうな顔が私を迎えてくれた。そして彼は 「私に何を求めているのですか」 と切り出した。私はフランス語を始めてから今に至るまでの心の軌跡を説明する。どの程度理解されたのかわからない。しかし、彼は非常に興味を示し、こちらで行われているいろいろなセミナーに参加したり、今年の秋にパリで開く予定にしている日仏の会議もあるので参加すると面白いのではないか、などの肯定的な話が続いた。
その会話の中で、論文などを書くのもフランス語を深めるためには興味深い経験になるかもしれないという考えが一瞬走った。それをどういう表現で口に出したのか今思い出せないが、彼はやや驚きと好奇心が入り混じった表情で、院生になりたいのですか、と聞いてきた。もちろん、フランス語での論文など考えられないので・・・と言葉を濁していた。それにしてもあなたの人生は他に例のないものですね、という意味を込めた "une vie singulière" という表現で私の選択を彼は表現していた (その時、singulier の持つもうひとつの素晴らしい意味を知ることになった)。この会話の中で、自分はこちらのどこかの大学に身を寄せて、自分の求めることを好きなように考えてみたいという漠然とした考えしか持っておらず、どのような立場で来るのかということについては何も考えていないことに気付き始めていた。
DL氏の研究室が来年早々には引越すことになっているとの話だったので、翌日の出発前の時間を使って新しい場所を見て帰ることにした。来年はここのどこかで学びの道を歩いているのだろうか、などと考えながら寒さをものともせず構内を散策し、期待を胸に夕方の便でパリを後にした。
再びパリへ
2007年3月31日


2007年3月中旬、花粉症から逃れ、向こうの状況を確かめるために再度パリ訪問を計画。これまでのやりとりから、メールではほとんど埒が開かないということを学習していたので、実際に出かけて直接話をすることにしたのだ。行く前に電話で DL氏との面会の予約を取り、自分の中では最終的な形をつける旅になると思っていた。しかし、新しい場所に移っていた DL氏の研究室で話し始めてすぐに、自分がどのような形で滞在するのかということを決めなければならないことに気付かされることになる。
私の希望は、報酬はいらないが、比較的自由に時間を使いながら数年単位でこの世の問題を考えてみることができれば最高だが・・、というものであった。しかし、DL氏が考えていた招聘教授の場合、報酬はあるが1ヶ月、長くても3ヶ月だけの採用にしかならないという。学生としての可能性も聞いてみたが、私の選択を "une voie singulière" と形容してはいたものの、学生という選択は最初から考えていなかったようだ。彼の時間がそれほど残っていないことも関係あるのかもしれない。話を終え、セーヌ沿いにあるその建物を出て、近くのカフェに入り思いを巡らせる。そして、向こうに長期滞在するには学生になるのが一番実現性があるのではないか、あるいはそれしかない道はないという結論に達した。
今回の面談も滞在が残り3日というぎりぎりのところで行われた。早速、学生として受け入れてくれる可能性のありそうなところを調べ、残り3日間で回ることになった。またしても突撃である。最終的には4ヶ所を回り、そこの秘書とは話すことができた。どういう訳か、御本人たちは一人も仕事場に顔を出していなかった。その中に、無愛想で対応が厳しいのだが、隣の部屋でやっている講義を聴けるように手はずを整えてくれたり、履歴書だけでも置いていったらどうですか、と言ってくれる秘書がいた。今から振り返ると、いかにもパリジエンヌというこの方、やることはきっちりとやってくれていたことがわかり、なぜか嬉しくなるお人柄である。
そもそも学生になろうなどという考えはなかったので、フランスの教育制度がどうなっているのかなど調べたこともなかった。しかも一般の学生になるのか、大学院で学ぶのかということも全くつかめなかった。より正確に言うと、大学院生としての資格があるのかさえ、よくわかっていなかったのである。しかし、それぞれのところで秘書の方と話しているうちに、向こうのシステムが次第に明らかになり、大学院生として学ぶことも可能であることがわかってきた。同時にそれは、自分がやりたい領域を絞り込み、さらに指導を受けたい教官を探さなくてはならないということを意味していた。秘書の人たちが苛立ちを隠さなかったのは、自分の目的が漠然としていて、一体何をやりたいのか、したがって誰のところで研究したいのかがわからなかったからである。そんな人のお相手をするのは御免ですよ、ということだったのだと思う。
この間、具体的には以下のような経過であった。EHESSでは入学担当の人と話をする。こちらの経歴を話すと、マスターとして研究できるかもしれませんよ、と言ってくれる。大いに元気が出る。そのためにはプログラムを見て、指導教官に希望する先生と連絡を取る必要がありますという貴重な言葉をいただいた。翌日、プログラムの中にあった先生がいるCAKに出かける。しかし、先生は不在。日本に帰ってから連絡を取るということで秘書室を出た。さらにEHESSに関連している先生がENSにいたので2日続けて訪ねてみたが、いずれも不在。それから、ENSそのものの哲学科の秘書室に行く。天井に届く壁一面に本棚があり、そこに哲学書が埋まっている。部屋に入ると初老の男性が秘書と話をしている。その話が終ってから自分の希望を伝えると、こちらではマスターの学生は受け入れていないので、別のところに行った方がよいと教えてくれる。部屋を去る時、先ほどの初老の男性が、その計画面白そうですね、ソルボンヌ辺りでは受け入れているはずですよ、などと外国訛りのフランス語で話しかけてくれた。
その日、自分の希望する領域の先生が揃っているIHPSTに行こうかどうか迷っていた。実はその前日に訪問したが、その扉ががっちり締まっていて開かないので諦めていたのだ。しかしENSの秘書が電話してから行ってみたらどうですか、というので電話してみる。すると、扉の横のボタンを押さなきゃ駄目です、との返答。ここで先ほどの秘書に出会ったのだ。それから日本に帰る前日には、P4の哲学科にも寄ってみた。そこの秘書は、少し話を聞いたところで、それならまずディプロムの交換をやっているオフィスに行って書類のことを聞くことが先決、と教えてくれた。残念ながら金曜の午後は扉が閉まっていたので、日本に帰ってから連絡を取ろうと考えて雨の街に出た。
このような経過で、日本に帰ってから、どの先生が一番自分の興味をカバーしてくれるのかじっくり検討してから、メールを出すつもりでパリを後にした。
パリからの連絡
2007年4月2日


日本に戻ってから会合などの準備に忙しく、フランスに手紙を出す余裕がなかった。そして、帰国後1週間経った本日、やっとその手紙に取り掛かる時間ができた。"Lettre de motivation" と言われるものの中で、これまでに私の中で起こってきた変化やなぜこのようなことをやりたいのかということをまとめている最中に、予想もしなかったことが起こった。私がパリ滞在中に訪ね、秘書の言葉に促されて書類だけを置いてきたところがあったが、そのJG教授から英語でメールが入ったのだ。そこには次のようなことが書かれてあった。
「今学会から帰ったところであなたの書類を見た。これまであなたがやってきた自然科学から哲学へという道は興味深いが、一体どういう動機で、何を、どういう立場でいつからやりたいのか、などあなたの考えを知らせてほしい」
このメールを読みながら、不思議なものを感じていた。そして、この広い世界にはこのような異分野の者を受け入れようとしてくれるところがあることに感動さえ覚えていた。これで手紙を書く集中力が一気に高まる。すぐにまとめて送ったところ、翌日には返事が来た。そういう考えであれば私としてはMasterとして受け入れることは可能だ。特に哲学の分野では最先端の科学を取り入れながら進めているのでその方針にも合うというありがたいお言葉も。さらに、秘書にフランス語で連絡して登録に必要となる書類を提出すること、6月にすべての登録者について審査して最終決定するというものであった。
それから秘書に連絡を取ろうとして連絡先を探している時に、再び驚くべきことが・・・。Maison Internationaleという留学生を相手にしているところからメールが入り、必要書類一式のリストなどを知らせてきた。JG氏が秘書に話をして、そこから Maison Internationaleへ連絡が行ったものと思われる。この間僅か一日である。フランスとのメールのやり取りでこれほどレスポンスがよいことは皆無である。その時の流れに快感、そして運命を感じていた。
提出書類の準備
2007年4月8日

1) Lettre de motivation
2) Projet de recherche en 2-3 pages (uniquement pour le M2 Recherche)
3) Photocopie de votre diplôme de fin d'études secondaires et de sa traduction
4) Photocopie des diplômes obtenus ultérieurement ainsi que leurs traductions
5) Photocopie du relevé de notes ou du livret d'études année par année et sa traduction
6) Extrait d'acte de naissance
7) Lettre de recommandation d'un professeur
- ou Test de Connaissance du Français (TCF) niveau C2 (épreuves obligatoires et facultatives)
-ou DALF complet
9) Un curriculum vitae
10) Deux enveloppes libellées à votre nom et adresse personnelle plus 2 coupons réponses internationaux si vous résidez à l'étranger
- une au format 210 x 297 mm
- une au format 220 x 110 mm
1)志望理由などを書いた手紙
2)Master 2に入る場合は研究テーマ(2-3ページ)
3)高校の卒業証書とその翻訳
4)最終学歴証明書とその翻訳
5)成績表とその翻訳
6)戸籍抄本
7)教授の推薦状
10)封筒 (210x297 mm と 220x110 mm) と国際返信クーポン2枚 (150円x2)

先週水曜に、向こうの Maison Internationale から必要書類を4月15日までに提出するようにとの連絡が入った。あと10日くらいしかない。調べてみると登録書類を取り寄せる締め切りが3月15日になっているので、そもそも書類が手に入らない時期の申請ということになる。JG氏の配慮に感謝すると同時に、ある意味運命的なものを感じる。早速、外からもらう必要のあるものを依頼する。昨日、DALF-C2のディプロムをもらうために日仏学院に寄ったついでに、坂を上ったところにある CampusFrance(フランス政府留学局)のオフィスに入る。向こうの大学の様子を聞くためである。日本語を完璧に話すフランク・ミシュラン氏に懇切丁寧に対応していただいた。
まず、書類を出した中で実際に受け入れられる可能性はどのくらいなのか確かめてみた。彼によると、Master の場合は指導教官がOKを出していれば、入学自体はほとんど問題がないという。少し安心する。問題は必要書類をしっかりと期限までに提出すること。参考までに必要書類を列挙したい。
1) Lettre de motivation
2) Projet de recherche en 2-3 pages (uniquement pour le M2 Recherche)
3) Photocopie de votre diplôme de fin d'études secondaires et de sa traduction
4) Photocopie des diplômes obtenus ultérieurement ainsi que leurs traductions
5) Photocopie du relevé de notes ou du livret d'études année par année et sa traduction
6) Extrait d'acte de naissance
7) Lettre de recommandation d'un professeur
8) Pour les non francophones : attestation de réussite au
- Attestation du Service Culturel de l'Ambassade de France- ou Test de Connaissance du Français (TCF) niveau C2 (épreuves obligatoires et facultatives)
-ou DALF complet
9) Un curriculum vitae
10) Deux enveloppes libellées à votre nom et adresse personnelle plus 2 coupons réponses internationaux si vous résidez à l'étranger
- une au format 210 x 297 mm
- une au format 220 x 110 mm
1)志望理由などを書いた手紙
2)Master 2に入る場合は研究テーマ(2-3ページ)
3)高校の卒業証書とその翻訳
4)最終学歴証明書とその翻訳
5)成績表とその翻訳
6)戸籍抄本
7)教授の推薦状
8)フランス語が外国語の人は、フランス大使館の証明書か、TCF-C2あるいはDALF-C2を持っていること
9)履歴書10)封筒 (210x297 mm と 220x110 mm) と国際返信クーポン2枚 (150円x2)
この中の戸籍抄本について、大使館認定のところで訳してもらったものを大使館で認証してもらう必要があるのかどうかを聞いてみると、彼は言下にそうしなければ駄目と言う。締切は、この日曜日 (4月15日)。抄本を取り寄せ、訳してもらい、さらに認証となると時間的に間に合いそうもないので、、との問には、メールでは返事が来ないことが多いので Maison Internationale と電話連絡を取り、その旨伝えておいた方が安全とのこと。
この1週間ですべてを片付けなければならない。いずれにしても外からのものの戻り方次第になる。Lettre de motivation については、研究テーマの可能性を含めて先週月曜にすでに提出しているので、それを少し修正すれば出来上がるだろう。教授の推薦状だが、私の場合は指導教授はすでに物故されているので、私の友人YH氏にお願いすることにした。その旨、理由をつけて送ることになる。フランス語のレベルについても何か偶然を感じてしまう。去年秋にDALF-C2を受け、幸運にも合格していたからだ (仏検の資格はこの場合には役に立たないのかもしれない)。それがこういうところに結びついてくるとは、その時は全く予想もできなかった展開だけに不思議を感じている。
これは余談だが、CampusFrance オフィスの雰囲気がいかにもフランス!で、足を踏み入れた途端に気分がよくなった。お相手をしていただいたミシュラン氏とはフランス文化・日本文化などの本題以外の話に盛り上がり (私の中では)、20-30分くらいは雑談をしていたようだ。何か必要なことがあれば連絡してくださいとの言葉に心を強くして坂を下っていた。
哲学の関連で思い出すこと
2007年4月16日

そして、こう結論付けている。

今回のことを哲学との関連で見ると、この2年余りの間にいろいろなことが私の頭の中を去来している。まず今までほとんど気付かれずにどこかに行ってしまっていた記憶が甦ってきたことだ。それは高校時代の志望が哲学であったこと。今となってはその理由を思い出せないし、高校3年の時に周りに言われて今の分野に転向したので、大した根拠もなかったのかもしれない。
それから、1年程前に私のフランス語版ブログに届いたフランス人の元哲学教師の言葉が、静かだが確実な影響を与えている。彼は全ての内容に目を通し、私という人間を分析していた。
「あなたはこの世に生きている人たちの仲間で、そこに参加することを知っている。あなたのフランス語への思い入れの強さに驚いています。言語は人間が住む家です。もし薦めるとすれば、マルティン・ハイデッガー (1889-1976) の "Lettre sur l'Humanisme" 「ヒューマニズムについて」 などはよいでしょう。
あなたはイメージに惹きつけられています。それから時の流れに身を委ねることが気に入っています。そこにはすでに亡くなっている人と同時代人であろうとする意思が感じられるのです」
そして、こう結論付けている。
「あなたの天性の活力は現象学 la phénoménologie と結びついていて、フッサールやハイデッガーを愛するために生れてきたのです。そして、それはカンディンスキーへとつながるでしょう」
現象学という初めて聞く言葉が私の内に強いインパクトを残し、これらの芸術家が急に自分に近いところに感じられるようになっていた。それから今年の正月、母親の本棚に昭和20年代の哲学書があった。坂田徳男著 「哲學素描」 (晃文社)。読んでみると驚いたことに、それは科学哲学の啓蒙書だったのである。
哲学を「学ぶ」とは
2007年4月19日


一般的に言うと、私はこれから 「フランスで哲学を学ぶ」 ことになるかもしれない。このことにどういう意味があるのだろうか。おそらく、「哲学を学ぶ」 という表現に問題があるのかもしれない。哲学を学ぶということがそもそも可能なのか。哲学を学ぶということは、哲学することとは別のことだろう。では、なぜフランスでそんなことを・・・
私の中ではこういうことのようだ。これまでに存在した人間が考えてきた軌跡を辿り (おそらくこの過程が学ぶということになるのだろうか)、自分と響き合うものを持った人を捜し求める場にしようとしているようだ。自らの感覚器を研ぎ澄まし、相手が放つものを捉える作業を通して、私の中にすでに存在している思想を生き返らせ、新たに誘発される思考を追いながら、それに陰影を加え、少しでも自分らしいものを創出できないかということになる。今ぼんやりと自分の中にある考えをより確かなものとして見えるようにしたいという強い願望があるようだ。
それでは、なぜフランスなのか。それは自分の感覚器が最も鋭敏に反応するようになる環境が現時点ではフランスだからだ。将来のことはわからないが、今この時に自らを最も感度よく反応させることができる環境がフランスだと結論しているからである。そして、自分のどこかと共振する何かを持っている人を長い人類の歴史の中から発見したいという想いが強い。これらの作業を、デカルトがそうしたように覆面をして進めて行きたい。最後までそうできれば最高だろう。
マスターのプログラムを見る
2007年4月24日


私が希望している大学のサイトから Sciences humaines et sociales のプログラムを取り出してみる。パリの4つの大学(パリ第1大学、パリ第4大学、パリ第7大学、エコル・ノルマル)が参加して構成されているそのコースは、私のために準備されたかに見えるほど、こちらの求めるものに溢れている魅力的なコースである。アメリカの大学は全く調べていないが、少なくともヨーロッパではここにしかないというこのサイトの宣言が、満更自己宣伝だけではないと思わせてくれるくらいである。
その中に参考文献が紹介されているものもある。プログラムは昨年のものだが、こういう分野である、1年の違いなどほとんど意味がないだろう。自然科学の分野との大きな違いだ。そこには今までに名前だけ聞いたことのある人、全く聞いたことのない人などが並んでいる。不可能であることはわかっているものの、そのすべてを知りたくなってくる。まさに、パスカルの "peu de tout"(すべてを少しずつ)の世界である。これまでに感じたことのない純な好奇心が、尽きることなどないかのように溢れてくるのだ。どうしてこれほど惹かれるのだろうか。その理由はわからない。それは、あたかも人間存在についての興味がこれまで気付かないうちに静かに溜り続け、今堰を切って溢れ出してきたかのように見える。早くこれらの人々とともに歩むことができる環境に身を置きたくなっている。
ところでフランスの大学教育のシステムが、少なくとも私にはわかりやすく変わっていることに気付く。LMD というシステムで、Licence, Master, Doctrat の頭文字をとったもの。バカロレアの後、順調に行けば、それぞれ3年、2年、3年で修了することになっている。EUの他の大学との交流を可能するためのようである。ただ、Licence と Master は以前は年単位だったようだが、LMDでは Semestre 制を導入。1年を2学期に分け、それを順次クリアしなければ上に進めないことになっている。私のようなのも含め、いろいろな学生が来ることを予想してのことなのだろうか。学生にとっては大変である。
取るべきコースの薦め
2007年4月26日

Domaine : Sciences humaines et sociales
Mention : Philosophie
Specialité : Logique, Philosophie, Histoire, et Sociologie des Sciences

どのコースを登録すべきかについてJG氏に確認のメールを2週間ほど前に出しておいたが、その返事が今日届いていた。そのメールによると、
Domaine : Sciences humaines et sociales
Mention : Philosophie
Specialité : Logique, Philosophie, Histoire, et Sociologie des Sciences
「科学の論理学、哲学、歴史学、社会学」 となっていた。それ以外は私の興味の外なので書類は提出済みであったが、返事を受け取り、とにかく忘れられてはいないということを確認できたことが大きな収穫である。
先日から集め始めた関連文献を少しずつ読んでいる。今まで気にはなっていたが、実際の科学に忙しく手が回らなかったものばかりなので、不思議な感慨が湧いてくる。例えば、あの苦しんでいた時期に、この領域ではこんなことが問題になっていたのか、というような。時間に沿っての景色が重層的に見えてくる面白さといってもよいかもしれない。
もし・・・がなかったら
2007年5月1日

● もしDALFの試験を受けていなければ、大学院に入る資格はなかったかもしれない。

6月までは実現するかどうかはわからないのだが、今の段階でどうしてここに辿り着いたのかについての運命論者としての作業を試みてみた。それは振り返ってみて、もしあのことがなければこうはなっていないだろうという出来事を探し出すという作業で、もちろん退屈しのぎである。そこから出てきたものを、以下順不同で。
● 2001年春に、もしフランス語のことが頭に浮かばなかったならば、こうはならなかったかもしれない。
● その時、花粉症がひどく、家で休んでいた。もし私が花粉症でなければ、フランス語への興味が湧くことはなかったかもしれない。
● 科学哲学という領域があることを知ったのは2005年春、パリの友人MDとの会話の中であった。もし、MDとの知己を得ず、彼との会話がなければ、ジョルジュ・カンギレムの名があの不思議な感覚とともに私の中に入ることはなく、この領域に興味を持つことはなかったであろう。
● 人類の歴史や哲学で生きてみようという決意は、時差ぼけの朝に浮かんできた。もし、2006年秋のパリの学会に出席していなければ時差ぼけもなく、日常的な頭では決意という形にはならなかったかもしれない。
● もし2006年秋に散策の途中に本屋に入り、DL氏の本に目が行っていなければ、彼との接触を考えることもなく、またその年の暮にパリを訪れていなければ、それを実行に移すこともなかったであろう。
● もし2007年春に再びパリを訪れDL氏との再度の話をしていなければ、どのような形で研究が可能なのかということはわからなかったであろう。
● そして、もし扉ががっちりと閉まったままのIHPSTを再度訪れていなければ、そして私の書類を置いてこなければ、JG氏からの連絡が入ることはなかったであろう。
● もしDALFの試験を受けていなければ、大学院に入る資格はなかったかもしれない。
● もしブログを始めることがなく、ぼんやりと暮らしていたならば、このような考えになったかどうかわからない。
● ブログを始めてからの読書の過程で、過去の人物の一生を眺めているうちに、自分の頭に築き上げられていた枠がほとんど完全に取り払われたようだ。つまり、この世は何でもありなんだ、と悟るようになった。その意味でも、もしブログをやっていなければ、どうなったかわからない。
● 永遠に続くと思っていた仕事の終わりをはっきりと感じ取った時、自らの終わりをも強く意識させることになった。終わりを意識した人間は哲学者になるのだろう。私もその時から哲学者になり、残りの生をその全体としてどう生きるべきかを考えるようになったようだ。換言すれば、そもそも定年がなければ、このようなことを考えることにはならなかったかもしれない。
このように今に続く糸を探し出すと、永遠に数え上げることができるようだ。人生が見えざる糸によって編み出されているということを感じざるを得なくなる。こんなことを書いている今が、また私を別のどこかへと導くことになるのかもしれない。こう考えていくと、人生の一瞬一瞬がスリリングなものに見えてくる。
何の目的もなくやっていることが、何かにつながっていたということを知ることの喜びは計り知れないものがある。私の場合は、何かのためにやると考えただけで、そう言われただけでやる気が失せるところがある。やること自体に意味を見出せなければやる気が湧いてこないのだ。何かのためではなく、そのためだけにやるという純粋な心がそのものに打ち込ませる。そのことの大切さを改めて感じている。
パリでの心の昂ぶりを思い出しながら
2007年5月20日

人類の遺産と歩まんヴァンセンヌ
avec le patrimoine spirituel
je décide de marcher
à Vincennes
梅香るここしばらくのヴァンセンヌ
les fleurs des pruniers s'exhalent
je serai pour le moment
à Vincennes
いつ来てもパリの空切る飛行機雲
Chaque fois à Paris
les traînées des avions
coupent son ciel
哲学と科学と神とパリセット
la philosophie
la science et Dieu
à Paris VII
哲学書前に昂ぶるリブレリー
devant des livres philosophiques
je m'exalte
dans la librairie
白雪の荒野をゆくかこれからは
vais-je désormais
sur la terre sauvage
de la neige blanche ?
春盛り住みたくはなしパリ市街
en plein printemps
je ne voudrais pas habiter
au cœur de Paris
春のパリ住処に帰る心地して
le printemps de Paris
je me sens comme si
je revenais chez moi
春の空住み遂せるかパリの町
le ciel du printemps
puis-je vivre
pour toujours à Paris ?
巴里の街若き日の我溢れおり
à Paris
plein de gens comme
moi de ma jeunesse
春の巴里沸き立つ心ボストンの
Paris au printemps
je m'exalte
comme aux temps de Boston
若き日と再び歩まんパリセット
allons encore
avec ma jeunesse
à Paris VII
フランス語我を導き哲学へ
la langue française
me guide sur les chemins
de la philosophie
なぜ哲学それ人生と先人 (ひと) の説き
pourquoi la philosophie ?
« c’est la vie même »
disent nos ancêtres
巴里に住みすぐ蘇る紐育
dès que j'habite à Paris
les jours de New York
me reviennent
西東なぜ斯く違う春うらら
l'est et l'ouest
pourquoi si différents
le printemps doux
先人の形見に触れん秋 (とき) 近し
le souvenir de nos ancêtres
le temps de le toucher
est tout près

若き人との接触を終え、のんびりとした日曜の昼下がり、3月にパリを訪れた時に一気に湧いてきた句 (と言うことができればだが) のことを思い出す。こんなこと、後にも先にも初めてである。当時の心の昂ぶりが表れているので、その一点でのみ掲げておきたい。これから先、事あるごとに思い出しそうである。
人類の遺産と歩まんヴァンセンヌ
avec le patrimoine spirituel
je décide de marcher
à Vincennes
梅香るここしばらくのヴァンセンヌ
les fleurs des pruniers s'exhalent
je serai pour le moment
à Vincennes
いつ来てもパリの空切る飛行機雲
Chaque fois à Paris
les traînées des avions
coupent son ciel
哲学と科学と神とパリセット
la philosophie
la science et Dieu
à Paris VII
哲学書前に昂ぶるリブレリー
devant des livres philosophiques
je m'exalte
dans la librairie
白雪の荒野をゆくかこれからは
vais-je désormais
sur la terre sauvage
de la neige blanche ?
春盛り住みたくはなしパリ市街
en plein printemps
je ne voudrais pas habiter
au cœur de Paris
春のパリ住処に帰る心地して
le printemps de Paris
je me sens comme si
je revenais chez moi
春の空住み遂せるかパリの町
le ciel du printemps
puis-je vivre
pour toujours à Paris ?
巴里の街若き日の我溢れおり
à Paris
plein de gens comme
moi de ma jeunesse
春の巴里沸き立つ心ボストンの
Paris au printemps
je m'exalte
comme aux temps de Boston
若き日と再び歩まんパリセット
allons encore
avec ma jeunesse
à Paris VII
フランス語我を導き哲学へ
la langue française
me guide sur les chemins
de la philosophie
なぜ哲学それ人生と先人 (ひと) の説き
pourquoi la philosophie ?
« c’est la vie même »
disent nos ancêtres
巴里に住みすぐ蘇る紐育
dès que j'habite à Paris
les jours de New York
me reviennent
西東なぜ斯く違う春うらら
l'est et l'ouest
pourquoi si différents
le printemps doux
先人の形見に触れん秋 (とき) 近し
le souvenir de nos ancêtres
le temps de le toucher
est tout près
フランスからのメール
2007年5月27日

-----------------------------
-----------------------------

思いがけないことがたまに起こるものである。今日、フランスからメールが入っていた。 メールの主は、大学で哲学を修めた後、哲学教師をされていた方で、これまでも私のフランス語版ブログにいくつかの貴重なコメントを残している。例えば、私の拙いフランス語を最初から読んだ後に、次のような分析を加えている。
-----------------------------
あなたのブログを特徴付けているのは la dynamique (活力に溢れていること)である。この世に生きている人たちの仲間で、そこに参加することを知っている。あなたのフランス語への思い入れの強さに驚いている。言語は人間が住む家である。もし薦めるとすれば、マルティン・ハイデッガー Martin Heidegger (1889-1976) の "Lettre sur l'Humanisme" (「ヒューマニズムについて」) などはよいでしょう。あなたはイメージに惹きつけられている。それから時の流れに身を委ねることが気に入っている。そこにはすでに亡くなっている人と同時代人であろうとする意思が感じられる。あなたの天性の活力は現象学 la phénoménologie と結びついていて、エドムント・フッサール Edmund Husserl (1859-1938) やハイデッガーを愛するために生れてきたのだ。そして、さらに Kandinski (1866-1944) へと繋がるだろう。 (25 avril 2006)
-----------------------------
それ以来、ここにあげられている芸術家の存在を意識するようになり、少しずつではあるが彼らの声を聞くようになっている。
今回届いたメールは、科学哲学をするためにパリの大学に書類を出したことをフランス版ブログに書いたことに対するものである。A4に移すと2ページになるそのメールは、次のように始っている。
「今あなたの決心を知ったところです。それは非常に崇高な (noble) もので、あなたにとって重要な生命科学とフランス語の分野を発見しようとする意思の表れです。心から真摯な激励を贈りたいと思います。少し前に私の"友人" バシュラール Bachelard についてお話しましたが、科学哲学を学ぶことは素晴らしい旅になるでしょう。私はあなたが単なる目撃者 (le témoin) としてだけではなく、その当事者 (l'acteur) として積極的に働きかけることを願っております。そうすることにより、常に霊感を与えるような活力 (すなわち目覚め) が得られるでしょう。あなたを取り巻き、そして呼び覚ますものによってあなたが外に開かれるようになり、人間としての勤めを追求しようと冷静に結論を出されたことに心からの喜びを感じています。しかもあなた自身のものである考え方、尊厳をもって生きるという考え方を失うことなく。」
しかしその後には、悲観的な見方に許しを請いながら、フランスの現状を分析している。例えば、フランスは崩壊しかかっている。1992年以来哲学や古典 (ラテン・ギリシャ) 研究へのグラントはなくなっている。フランスは大学の学生・研究者よりも初等教育に金を使っている唯一の国である。科学哲学の領域にも、大きな変化が起こっている。フランスの大学は昔に比べると相当に酷い状態である。フランスはもはや文化の国でも知の国でもなく、没落する過程にある。むしろドイツの大学の方が大学の名に値する内容を持っている。そして、誤った現状認識のもとに今回の決断をしたのではないか、もしそうだとしたら "理想の国" フランスでの生活に落胆するのではないかという危惧が綴られている。さらに必ずしも学生になる必要はなく、むしろ大学というフィルターのない遊歩者として、旅行者として直接フランスを経験する方が多くのものを学び、より大きな喜びを得るのではないかと助言までしてくれている。
このメールの最後で彼は本名を名乗り、フランスを善き方向に導くために現在ある政党の候補として国政を目指していると告白している (ネット検索で見つけることができた)。見ず知らずの者に対して、これだけ真摯に声をかけてくれる人がいるということに驚きと何か不思議なものを感じている。生きることが確かに旅で、今その道行きにあるという実感を呼び覚ましてくれる。
フランス大使館にて
2007年6月4日


パスツール研究所創立120周年記念シンポジウム 「ルイ・パスツール:人類への貢献」が明日日経ホールで開催される。このシンポジウムに出席のため来日された研究所の理事長を囲む会が、この4月からパスツール協会の名誉総裁になられた常陸宮正仁親王殿下ご夫妻のご臨席のもと、フランス大使館で催された。幸いなことに、協会の方の勧めで常陸宮殿下ご夫妻に挨拶をする機会を得た。そこで私のこれからのプロジェについて話をしたところ、難しそうだが計画が成功するように祈っているとのありがたい励ましのお言葉をいただいた。実は、20 年程前私がニューヨークの研究所で仕事をしていた時に、ご夫妻が研究所を訪問され、親しく言葉を交える幸運に浴したことがある。20年を経てこのようなことが再び起こるとは、想像もできなかった。
このパーティで、二人の大使館の方と話す機会があった。折角なので私のプロジェを話してみた。そうすると反射的に、そのような学生のための奨学金を大使館が用意しているという話が出てきた。今年の分はすでに終っているので、2008年に挑戦してみては・・・というお話。彼らと話していて気持ちがよいのは、年齢の話が全く出ないことである。最初からそんな枠などはめて考えていないところがよいのである。さらに、哲学という話をすると、すぐに科学とのつながりを語り出すことである。私の話がよく通じるのである。日本人とではなかなかそうはいかない。これはヨーロッパにおける哲学、科学の歴史が彼らの精神に染み込んでいることの証左なのだろうか。そう思わざるを得ない、と今の段階では考えておこう。
入学許可書届き、ビザ申請へ
2007年6月21日

-------------------------------------------------
参考までにフランス大使館のホームページにある必要書類をあげてみると、以下のようになる。
1. 長期ビザ申請書
2. 証明写真
3. (仮)入学許可書
4. 滞在費の証明 (6000ユーロ以上の残高証明)
5. パスポート(残存期間が日本帰国予定日より3ヶ月以上) 、証明写真ページのコピー
6. ビザ料金 50ユーロ (ユーロ高のため8000円ほどになった)
7. 最終学歴を証明する書類 (英/仏文翻訳添付)
8. 履歴書 (フランス語か英語)
9. 動機書 (フランス語か英語)
10. フランス語レベルを証明できるもの (DELF、DALF、仏検など)
11. 学生ビザ申請者対象アンケート

昨日のこと。郵便箱を開けると、いつものようにビラが溢れている。その中に数通の封筒があり、一通のエアメールが目に入る。見ると、パリ第1大学からのものである。今週以降に会議があると予想していたので、意外に早いので驚く。早速開けてみると選考の結果が "favorable" とある。これで二ヶ月以上の 「待ち」 からやっと解放され、動き出せることになり一安心。
これまで私の中で埋もれていた営み、それは「真・善・美」についての人類の発見を探索する旅のようなものと言えるが、やっとその営みを自分の思うような切り口で進めることができるのか、という充足感が静かに押し寄せてくる。こういう感覚を味わうのは、本当に久しぶりである。おそらく、大学に入る前の春休み、あるいは米国に向かう前の状態に近いが、それよりもずっと穏やかで、しかもその喜びが深いような気がする。私のようなものに興味を示してくれたJG教授と選考に加わっていた大学の先生に率直に感謝したい。
最後まで残っていた書類(入学許可書)が届いたので、早速学生ビザの申請にフランス大使館まで出かける。快晴の週日の午前中、何の囚われもなく広尾界隈を散策するというのはこういう感覚を呼び覚ますのか。仕事をするということが本当によいことなのかどうか、考えてしまう。外国人で溢れかえったようなカフェがある。一瞬、ここはパリでは、と思う。大使館ではビザの開始日をいつにするのかを聞かれる。実際に学校が始る一月前まで遡って開始日とすることができるとのこと。私の場合、早めの出発もあるかと思い、そのように変更してもらった。その他には特に問題もなく終る。2週間後に出来上がるようだ。帰りがけに先ほど見たカフェに入り、これまでを振り返っていた。
-------------------------------------------------
参考までにフランス大使館のホームページにある必要書類をあげてみると、以下のようになる。
1. 長期ビザ申請書
2. 証明写真
3. (仮)入学許可書
4. 滞在費の証明 (6000ユーロ以上の残高証明)
5. パスポート(残存期間が日本帰国予定日より3ヶ月以上) 、証明写真ページのコピー
6. ビザ料金 50ユーロ (ユーロ高のため8000円ほどになった)
7. 最終学歴を証明する書類 (英/仏文翻訳添付)
8. 履歴書 (フランス語か英語)
9. 動機書 (フランス語か英語)
10. フランス語レベルを証明できるもの (DELF、DALF、仏検など)
11. 学生ビザ申請者対象アンケート
アパルトマン探し、銀行口座開設など
2007年7月19日


引越しになるといつものことで、住むところを見つけて、生活の基盤を整えなければならない。その準備をぼちぼち始めなければならないだろう。アパルトマンを借りるには銀行口座がなければならないようなので、向こうの銀行とFAXでやりとりを始めた。3月に滞在した時に会った日本人の方なので、勝手がわかってやりやすい。FAXが少しまどろっこしいところはあるが。実際には口座を開くためには生活の証拠がなければならないという堂々巡りなのだが、今回は口座の方を先に開設できそうである。日本の住民票と銀行の残高証明書とで何とかしていただけそうである。口座を設けた後で、住処を探すことになるだろう。問題は今のユーロ高である。しかし、学生の身なので贅沢は言っていられない。いずれにしても、来週からの様子を見てみたい。
台風の中、無事パリ到着
2007年7月16日


出る前に台風が来ていることを寸前まで気付かず、週間予報にある 「曇り時々雨」 だと思っていた。周りの騒ぎでどうなるのか気にはなっていたが、成田に着くと週間予報通りの曇りで時々雨の穏やかな天候。飛行機は定刻に飛び立ち、無事にパリ到着。前回も感じたが、着いた時の盛り上がりは全くない。特に今回は、日本のどこかの街に降りたのと同じ状態で、何の感情の変化も感じられない。おそらくこちらの人に会わなければ何も誘発されないのだろう。
今回のホテルはバスティーユの近く。ホテルのテレビではMaigretをやっている。喉が渇いたので水を探しにパスティーユ周辺に出る。歩いていると Le Point のおそらく恒例の夏の哲学特集が目に入る。今年は Spinoza のようだ。いつもの通り、部屋からのネット接続はうまく行かないので、時間を見て街のCyber Caféでやるしかなさそうだ。
今朝、テレビをつけると新潟の大地震が報じられている。震度6.8とあるので相当な被害があると予想される。原発から煙が出ている映像が流れていた。最小限の被害に食い止めていただきたいものである。こちらでは朝メトロに乗ると早速 Campo Formio で止まり、イタリア広場まで歩かされた。工事のためだろうか。健康にはもってこいの始まりではあるのだが、、、
旧友訪問
2007年7月17日
パスツール研究所までモンパルナスから歩く。受付の女性はもう顔を覚えているようで、また来たのかというような表情。研究室で話を聞く。丁度バカンスに出る前に論文を出す準備中で、早速私にも読んでくれと渡され、昼食に行くまでにコメントをほしいと言っている。いつ来てもダイナミックである。仕事の内容はわれわれのところのものと関連があり、興味を持って読んだ。
私のこれからの道を話すと研究室の人がいろいろと助言をくれる。例えば、これからアパートを探すのであれば、一本のメトロで通えるところを探すように。少し広めの方が面積当りではお得である。狭いステュディオの方が学生の需要があるため、高くなるという。また、これから仕事をしなければ大変だろうからと言って、アルバイトの紹介までしてくれる。まだどうするかはわからないが、本当にありがたい心遣いである。今博士論文を書いている最中のKは、哲学の大学院など出て、将来は哲学教師になるつもりですか?などと半分冷やかしの質問をしてくる。もちろんNONと答えておいたが、先のことはわからない。カンティーンではアルジェリア出身の友人と2年ぶりに会い、4人で昼食。あなたのこれからは面白そうだ、私の学会でもそういうセクションを設けようか、などと軽口を叩いていた。
これからある程度の期間過ごすという心の状態でこの街を見ると、以前の旅行者として見ていた時ほど輝いては見えない。おそらく、いつでも見られるという日常になってしまうことが大きいのだろう。いつも新鮮な目を保っていたいものだと思う。今日が最初であるとともに、最後であるという目を。
口座開設、そして住居探しへ
2007年7月19日


日本でランデブーを取っておいた日に、銀行口座の開設に向かう。必要なものは、日本の住民票、銀行口座の残高証明、それと若干のユーロであった。いくつかの書類にサインをしながら、こちらの状況を聞く。また、学生の場合は週に20時間まではアルバイトができることになっているので、何かやられたらよいのでは、とお勧めいただく。すべての手続は1時間ほどで終わり、アパート探しにまず郊外に向かう。
この春に来た時にもいくつかのカルティエを回ったが、今回は同じ場所には行く気にならず。初めて見る場所に住んでみたいと思っているようだ。まず手当たり次第に不動産屋さんを6-7軒回る。それぞれのところで持っているアパートの条件を見ると、ほとんど満たしているのだがどれか一つが欠けているという状態。それぞれを足し引きできればよいのだが、そうは問屋が卸さない。人生を見る思いだ。前回の経験で、店員の対応もよく、持っている物件数も多かったので今回もまずそこから始めようと決めていた。しかし、メトロを降りると目の前に別の不動産屋があったのでまずそこから始め、最後に目指すところに辿り着いた。張り出された広告を見ると、1件だけ家具付のものがある。しかも他の条件もすべて満たしている。こういうものが初日に出てくるとは運がよい。
これが良さそうだと担当のダヴィッドに伝えると、フランスでどのくらいの期間働いているのか、と聞いてくる。2日前に着たばかりだと言うと驚いて、そういう人には貸せません。こちらで収入がなければ駄目です、と言って聞かない。よもや学生になろうしているとは思っていなかったらしい。それでは学生の場合はどうするのかと聞くと、こちらで収入のある人が保証人にならなければ駄目です、ときっぱり。前回の訪問時に、銀行の方からcaution bancaire(1年分の家賃プラスαを銀行で確保する)があれば借りられるような話を聞いていたのでそれでどうかと聞くが、グループの決まりでできないと言う。まだアパートを見てもいないうちにそれ以上詰め寄っても始らないと思い、とりあえず翌日現地で待ち合わせて部屋を見ることにした。
アパートを見る
2007年7月22日


数日前、求める条件を満たしているアパートを見に出かける。これまでの経験から、図面や説明では実物が予想もつかないことがあり、意外なものがよかったりする。見るまでの楽しみでメトロを降りると、中心部とは違い落ち着いた町並みで好感触。さらにアパートのある通りに入るといわゆる郊外の住宅街で、非常に静かである。アパートのすぐ横にはコンビニ、洗濯屋、靴修理屋、鍵屋、銀行、さらに少し歩くとショッピングセンターがあり、生活するのには不便はなさそうな環境である。アメリカ郊外の小さな町を思い出させる。
約束の時間に担当のダヴィッドがバイクで到着。ヘルメットを取りながらこちらに手を振っている。中に入ると家具付と銘打っているだけあり、家具はもちろんだが、食器、棚や壁の飾り、さらにご丁寧なことに本棚には本がぎっしり詰まっている。一人で乗り込んでもすぐに生活できる状態になっているし、これからさらに探す根気もなく、またこれまでの経験から自分にしっくりときているとわかるもので、今回もそう感じたのでこれに決めることにした。
問題はその後に出てきた。賃貸契約に projet de bail という書類を準備するのだが、それに少なくとも10日はかかるというのだ。アパートを探して契約まで辿り着こうとしたならば、一月位は必要になるのか。どうしても予定通りに帰らなければならないと詰め寄ると、まずアパートの管理をしている会社に2か月分の敷金 dépôt de garantie と最初の家賃のチェック、それに不動産屋に礼金 honoraire のチェックを準備すること、その上で書類に先にサインをして銀行と銀行保証 caution bancaire の手続をするという。そう言い残して大忙しのダヴィッドは次のランデブーにバイクで飛んでいった。明日以降の成り行きを見なければならないが、何とかなりそうな雲行きである。
大学を覗く
2007年7月23日


アパートを見た帰りに大学に寄る。回廊のようなものがあり、中には Victor Hugo と Louis Pasteur の像がある。中を歩いていると、小さな部屋に数十人の学生が集まってワインパーティをやっているところに出くわす。入り口の表示を見ると、パリ第4大学の人類学に入学する学生さんが登録を終わって顔見世せの会をやっている最中のようだ。さすがに皆さんお若い。中に変わり者がいるかどうか覗いてみたが、ここには見つからなかった。あと一ヵ月もすれば私もこのような人の輪にいるのだろうか。
ホテル近くの古本屋で通りに出ている棚があったので覗くと、hamac の文字が見える。ダニエル・ぺナック(Daniel Pennac)という人の « Le dictateur et le hamac » であった。近くのカフェでモナコというビールのカクテルを飲みながら、最初の方を読む。南米辺りの仮想の国の独裁者で、権力とどこか別の場所 (ヨーロッパなど) を求めているが、なぜか広場恐怖症 agoraphobie の男が主人公らしい。人嫌いでもないのになぜアグロフォブなのか。どうも占いの人にあなたは民衆に虐殺される運命にあるとのお告げを受けたことが原因らしい。悪夢に苦しめられ、身代わり (le sosie という言葉がよく出てくる) を雇う。そのあたりの絡みがこれから出てくるのだろうか。しかし、なぜ hamac が出てくるのか、そこにも興味がある。
お店の人に、どこから来たのですかと聞かれると、自分がどこに属しているのかわからなくなる感覚に襲われる。これはアメリカにいる時にも襲ってきたものだ。これからこちらにしばらくいるという意識も加わってそうなるのかもしれない。
アパート契約終了
2007年7月25日


今回の旅を始める前は、一体私はどこに住むことになるのだろうかと興味津々であった。もともとどうしてもここでなければならないということはなく、その時の気分で最もしっくり来るところであればそれでよしとするタイプのせいだろう。振り返れば、生き方もほとんど同じように見えてくる。最初に道を決めるのではなく、歩んでいるうちに分かれ道が必ずやって来るが、その時に心の底に問いかけて折り合いのつく道を歩むというやり方であった。
出発前には、通学に交通機関を使わず、walking distance にアパートを見つけることができればよいのだが、とぼんやりと考えていた。2週間という時間を区切っていたので、最後の時間切れでは 「えいやーっ」 と決める予定でいた。しかし、何という幸運か、最初に見たところでしっくりきてしまったのである。このようなことはこれまでで初めての経験になる。しかも予想もしていなかった場所になったことも微かな喜びを呼んでいる。
本日、契約に必要な手続をすべて終え、後は caution bancaireの扱いをどうするかについて金曜日に銀行の方と話をして今回の予定のすべてを終えることになった。最初はどうなるのかという状況もあったが、最終的には予想を上回るペースで事が進んだことになる。これから名所巡りでもしようか、というのが普通なのだが、今回はそういう気が全く起こってこない。住処も決まり、しばらくこちらにいるという状況がそうさせるのだろう。それと新学期がどのようなものになるのかの方に興味が移ってきているようだ。今、大学のHPでコースの内容をチェックしてみた。結構ハードなことになりそうだが、それはそれで面白そうである。ありがたいことに、外国人向けのフランス語コースが必修となっている。
巴里到着
2007年8月30日


一月ぶりのパリになる。成田では、準備不足から持参しなければならない荷物が多く覚悟はしていたが予想通りの展開となった。持ち込める手荷物は12kgまでと決められていて、いくらお金を払っても駄目、と言われる。仕方なくすでに重量オーバーのスーツケースに手荷物のオーバー分を移し計量すると29kg。郵送にした方が安いかもしれませんよと言われるもすでにその気力なく、受付嬢に哀れみを請い続ける。その甲斐あってか、最後は片目を少しだけ瞑って計量していただいたようだ。日本ならではのこととは思うが、これから学生の身、ありがたかった。
今回はアムステルダム経由。KLM乗員の対応もなかなか感じがよく、機内も心なしかゆったりしているように感じる。「この飛行機はパイロット2人で運航することになっていますが、今回は3名が搭乗しています。パイロットが客室内をうろちょろしていても(もちろん、もう少し丁寧に)ご心配なさらないように」という機内アナウンスに少しにんまり。夕方、無事にパリのホテルに辿り着く。ここは隣の部屋の音は聞こえるものの、Wifi が無料で使える。タバコは吸えるのかをコンシェルジュの中年男に聞くと、「もちろん、全館禁煙です。でもたまに吸うくらいだったら、窓でも開けて吸えばいいでしょう。ヴォアラ!」 。この管理されていない、いい加減さが長旅の疲れを限りなく癒してくれる。ここに数日間お世話になった後、先月見つけたアパートに移ることになる。
まとめ 「フランス語、そして科学から哲学へ」
2007年11月8日

2年程前、言葉に慣れるために拙いながらフランス語でブログを始めた。先日、そこに書いたフランスで哲学をやることになったという記事に対して、A4にすると2ページにも及ぶ私の心を打つコメントが届いた。そのコメントの主は、大学で哲学を修め哲学教師をした後、フランスが自らの歴史を蔑ろにしている現状に危機感を覚え、現在政治の世界を目指しているという方である。要約すると次のようなことが綴られていた。
若き日とともに歩まんパリーアン
allons encore
avec ma jeunesse
à Paris 1
折に触れて8年前に始まったフランスでの道行を振り返ることにした。この記事では、旅の始まりに当たってのこころの状態が綴られている。事の始まりに関しては、その後いろいろな場所に書いている。当時の心積もりは数年の予定で、ここまでの長きに亘るとは想像もしていなかったことが分かる。今の段階では、それでよかったと思っている。落ち着いた精神状態になるには、8年の時が必要だったということになる。
この気付きから、フランスでは言葉の習得を意識的にはやらないことにした。あくまでも読み、書き、考えることを中心にして、口語表現や発音を後回しにしたのである。そのため、後者は未だに酷いものだが、それでよかったと思っている。なぜなら、思考をどのように深めて行けばよいのかということが、少しだけ見えてきたからである。それこそが、今回の滞在の目的だったからである。
この12月にはテーズの審査が行われる。大学生活の締めとしては忸怩たるものはある。しかし、何事にも終りはあり、それが今回振り返ることに向かわせたのは間違いない。

私は運命論者らしい。ある事に至った時、その元にあるものを探る癖がある。今回の元はおそらく2001年春ではないかと疑っている。その日私は花粉症に悩まされ、自宅のソファで横になっていた。朦朧とした意識の中で、20年以上前に滞在していたニューヨークで買ったフランス語のカセットのことをなぜか思い出したのだ。それは雑誌 New Yorker の縦長の広告を見て注文したものだが、当時は英語に忙しくほとんど触れることもなく忘れ去られていたのである。早速探してみると出てきたので、横になりながら、あるいは通勤時に20個ほどあるカセットをその音を楽しみながら聞き始めた。ただ聞いている、それだけであった。これが今回の事の発端になったフランス語との出会いである。
それからフランス文化との付き合いが始まった。その昔アメリカに渡り4年が経過したある夏の日の午後、英語が右から左に抜けるようにわかるようになる (私の中では) という経験をした。フランス語ではそれは無理だろうから、少なくとも4年間という時間を自由に使ってフランス文化に浸ってみてはどうだろうかという考えの下、これまでいろいろとやっていたようだ。何かのためにやるというのでは全くなく、ただフランス語の音や文化の中に身を晒し、そこでの出会いに快感を感じながらこれまで続けてきたように思う。ひょっとすると、こんなことは今までの私には起こらなかったことかもしれない。
今更述べる必要などないだろうが、異なる文化に触れるとこれまで慣れ親しんだものとは異なる発想の中に身を置くことになり、自分の中の全く別のところが刺激され、しばしば目を開かされる。私の購読している Le Point という週刊誌 (アメリカの Time や Newsweek に当たるようなものか) にはほとんど毎週のように哲学者 (philosophe) が出てくる。そのことに先ず新鮮な驚きを感じた。それから文化欄には哲学・思想と題する項があり、現役の哲学者や思想家が自らの経験を2-3ページに亘って語るのを読むことができる。その内容は哲学研究などではなく、自らの人生をどのように生きたのかを自らの思索を通して自らの言葉で語るというもので、そこにこれまでには感じたことのない、ある種の感動を覚えることになった。時には雑誌全体の特集としてニーチェ、ショーペンハウアー、スピノザ、モンテーニュなどの哲学者が10ページほども割いて取り上げられることもある。これらは私にさらなる驚きを与えた。
最近、フランス大統領選挙で勝ったサルコジの政権に、対立する社会党の影の内閣の大臣が参加するという現象が起こった。この現象に対して、表層的な、あるいは裏話的な分析に終始するのではなく、哲学者が出てきてそもそも裏切りとはどういうことなのかを分析したり、精神医学者が裏切りを生む精神状況を語ったりと物事へのアプローチが重層的で、事の本質に迫ろうとする精神を感じ、私にとっては大いに刺激的であった。このような小さな経験を積み重ねているうちに、私の中の何かが変容して行ったようだ。フランス語の « ouvrir votre esprit » という表現を 「あなたの精神を開く」 と直訳した時、私の経験していたことはまさにこれだと感じた。
2005年春、パリにあるP研究所の友人が私の研究室を訪ねてきた。彼は東京の街がマスクをしている人で溢れていることに驚いていたが、そこから会話がある方向に向かった。私が花粉症であること、花粉症のお陰でフランスとの出会いが生れたこと、病気がなくならないのは病気自体に存在意義があるからで、私にとっての花粉症はまさにフランスへの想いを呼び覚ますためにあったと考えている、というような他愛もないことである。そこで彼は、病気の意味などに興味があるのであればこの人を読んでみては、と言って 「ジョルジュ・カンギレム」 という名前を出し、« Georges Canguilhem » と綴ってくれた。それを見た時に実に不思議な感覚が襲ってきた。何と形容してよいのかわからないが、今まで全く知らなかった世界への鍵がそこにあるかのような、未知への扉がこれから開かれようとしているかのような感覚だろうか。それから彼の著作を取り寄せたり、関連する本に目を通すようになっていた。その結果、このような領域が科学哲学、フランス語では épistémologie (la philosophie des sciences) と呼ばれていることを初めて知ることになる。今から僅か2年ほど前のことでしかない。
またその頃から、ぼんやりと自らの退官のことが頭に浮かんでいた。それまでは研究生活が永遠に続くと無意識のうちに思い、呑気に研究をしていた。そもそも基礎研究を始めた当初の思いは、何か美しいものを見てみたい、あるいは大きな原理のようなものに触れてみたいというものであった。そのためには、自らの興味に従い求めを続け、その結果見つかってきたことをもとに、さらに問いかけるということを続けていけば、いずれ私の思いが満たされるのではないかと考えていた。これは意識的に考えたというよりも、直感的にそう思っていただけである、と今では言わざるを得ない。この考えは、研究生活が永遠に続くという前提の下で初めて自らを納得させることができるのではないか、と思い始めていた。そんな折も折、アインシュタインの次の言葉に出会ったのだ。
「概念と観察の間には橋渡しできないほどの溝があります。観察結果をつなぎ合わせることだけで、概念を作り出すことができると考えるのは全くの間違いで す。あらゆる概念的なものは構成されたものであり、論理的方法によって直接的な経験から導き出すことはできません。つまり、私たちは原則として、世界を記 述する時に基礎とする基本概念をも、全く自由に選べるのです。」
この言葉を見た時、ひょっとして私はスタートから間違っていたのではないか、という疑念が湧いていた。と同時に、これまで如何に自分の対象となっているものの本質を考えないで研究をしていたのかということを痛感させられていた。これから同じようなことを続けていて果たして自分は満たされて終ることができるのだろうか、さらに突き詰めると、これからを如何に生きるべきなのか、という究極の問が生れて初めて私の前に現れた。
この問に対して、自分に一番しっくり来る道、この道を行けば悔いを残さないと思われる道は何なのかを探ることにした。研究を続ける、大学で教える、新しい分野に入る、悠々自適を決め込む、などの可能性について、実際にその環境に身を置いて自分の反応を確かめるという方法で検討していった。試行錯誤を繰り返した結果、最終的にはパリ第1大学の大学院で科学哲学を学ぶことになった。ここに至る道は、パリ大学の先生が私のような門外漢に許可を与えたことも含めて、不思議の糸に導かれているとしか言いようのないものであった。
2年程前、言葉に慣れるために拙いながらフランス語でブログを始めた。先日、そこに書いたフランスで哲学をやることになったという記事に対して、A4にすると2ページにも及ぶ私の心を打つコメントが届いた。そのコメントの主は、大学で哲学を修め哲学教師をした後、フランスが自らの歴史を蔑ろにしている現状に危機感を覚え、現在政治の世界を目指しているという方である。要約すると次のようなことが綴られていた。
「今あなたの決心を知ったところです。それは非常に崇高な (noble) もので、あなたにとって重要な生命科学とフランス語の分野を発見しようとする意思の表れです。心から真摯な激励を贈りたいと思います。先日、私の 『友人』 と言ってもよいガストン・バシュラール (Gaston Bachelard) について話しましたが、科学哲学を学ぶことは素晴らしい旅になるでしょう。私はあなたが単なる目撃者 (le témoin) としてだけではなく、その当事者 (l'acteur) として積極的に働きかけることを願っております。そおすることにより、常に霊感を与えるような活力 (すなわち目覚め) が得られるでしょう。あなたを取り巻き、そして呼び覚ますものによってあなたが外に開かれるようになり、人間としての勤めを追求しようと冷静に結論を出さ れたことに心からの喜びを感じています。しかもあなた自身のものの考え方、すなわち尊厳をもって生きるという考え方を失うことなく。」
最近、こういうはっきりした言葉との触れ合いに心から満足を感じるようになっている。数年前では想像もできない変化である。このような精神状態でこれからの数年をこちらで暮らしながら、人類の蓄積を掘り起こし、自らも考えていくという選択をしたことになる。いつの日か、その営みの跡を語ることができれば素晴らしいだろう、などという考えを弄んでいる。最後に、今年の3月にパリを訪れた際に浮かんできた一句を掲げ、この小文を終えたい。
若き日とともに歩まんパリーアン
allons encore
avec ma jeunesse
à Paris 1
-----------------------------------
samedi 24 octobre 2015
折に触れて8年前に始まったフランスでの道行を振り返ることにした。この記事では、旅の始まりに当たってのこころの状態が綴られている。事の始まりに関しては、その後いろいろな場所に書いている。当時の心積もりは数年の予定で、ここまでの長きに亘るとは想像もしていなかったことが分かる。今の段階では、それでよかったと思っている。落ち着いた精神状態になるには、8年の時が必要だったということになる。
わたしのフランスへの興味は、全くの偶然で始めたフランス語から芽生えた。そのことがこの記事に書かれてある。若き日のアメリカでの経験と違うのは、言葉に対する態度であった。アメリカ時代には言葉の習得を第一の目的にしていたようなところがある。つまり、あらゆる機会を捕まえて言葉を学んでいたのである。
しかし、学びや反復の中にいると思考が疎かになることに当時は気付いていなかった。そのことに気付いたのは、何とこちらに渡る数年前のことであった。その時、思考の欠如が自らの仕事にも大きな影響を及ぼしていたことに気付き、驚いたのである。
この気付きから、フランスでは言葉の習得を意識的にはやらないことにした。あくまでも読み、書き、考えることを中心にして、口語表現や発音を後回しにしたのである。そのため、後者は未だに酷いものだが、それでよかったと思っている。なぜなら、思考をどのように深めて行けばよいのかということが、少しだけ見えてきたからである。それこそが、今回の滞在の目的だったからである。
10
年前に、フランスからコメントが届いたことも書かれてある。その主が言っていた「傍観者としてではなく当事者として」の生活はできたであろうか。マスター
では大学生活に追われていたが、ドクターでは隠遁者を決め込んでいた。その意味では、後半は実生活の中に積極的に入ることはなかった。しかし、その中においても精神的には当事者としてやっていたのではないかと思う。
この12月にはテーズの審査が行われる。大学生活の締めとしては忸怩たるものはある。しかし、何事にも終りはあり、それが今回振り返ることに向かわせたのは間違いない。
Inscription à :
Articles (Atom)


